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広島県を訪れる観光客の7割近くが尾道を訪れる一方で、竹原を訪れる人はその10分の1にも満たない。そんな統計を見たとき、ふと思った。人が集まる場所の近くには、いつも静かな”もう一つの選択肢”が、ひっそりと佇んでいるのかもしれない、と。
4月の半ば、新緑の予感が漂う週末に、わたしは竹原へ向かった。尾道から東へ約30キロ。瀬戸内の穏やかな海沿いを電車で揺られていくと、車窓から見える風景は次第に人の気配を薄くしていく。
町並み保存地区に、人影は少なく
竹原駅を降りて、徒歩15分ほど歩くと、そこには江戸時代の面影を残す町並みがある。「安芸の小京都」とも呼ばれるこの一帯は、製塩と酒造で栄えた商人たちの暮らしの痕跡が、そのまま残されている。
格子戸の続く通りを歩いていると、誰かの視線も、カメラのシャッター音も、ほとんど聞こえてこない。これが尾道だったなら、観光客同士がすれ違うたびに会釈をしたり、写真スポットで順番待ちをしたりするのだろう。けれど、ここにはそれがない。静けさが、ただそこにある。
白壁と焼き板の黒が交互に並ぶ家並みは、どこか映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の世界観を思い起こさせる。古いけれど朽ちていない。人の手が、ちゃんと入っている。それでいて、観光地化されていない。その絶妙なバランスが、竹原の佇まいだと思う。
町並みの中に、小さな酒蔵が点在している。蔵の入口に「試飲可」と手書きの札がかかっているのを見つけて、ふらりと入ってみた。中は薄暗く、ひんやりとしていて、木樽の匂いがする。店番のおじさんが、ゆっくりと説明してくれる。観光客に慣れているというより、ただ自分のペースで話している、そんな感じ。
西方寺の石段を、息を切らして
町並みを抜けて、少し高台へ向かう。西方寺と照蓮寺という二つの古刹が、この町を見下ろすように建っている。特に西方寺からの眺めは、竹原を訪れるならぜひ見ておきたいと思う。
石段が、けっこう急だ。途中で息が上がって、立ち止まる。でも、その止まった瞬間に聞こえてくるのは、風が木々を揺らす音と、遠くで鳴く鳥の声だけ。誰も追い抜いていかない。
頂上に着くと、眼下に広がるのは、瓦屋根が連なる町と、その向こうに静かに光る瀬戸内海。風が、少し強い。春の風は、どこか希望めいた匂いがする気がする。
境内には桜の木があって、もう花は散っていたけれど、若葉が芽吹き始めていた。その淡い緑が、午後の光を透かして揺れている。なんだか、胸のあたりが静かになった。以前訪れた奈良の高取城跡でも感じたことだけれど、観光地化されていない場所には、自分の呼吸を取り戻せる何かがある気がする。
町家カフェで、時間を溶かす
町に戻って、古い町家を改装したカフェに入った。名前は忘れてしまったけれど、引き戸を開けると、土間があって、その奥に小上がりがある、そんな造り。
注文したのは、焙じ茶のラテと、季節のケーキ。ケーキは、いちごが添えられていた。甘さ控えめで、生地がしっとりしている。焙じ茶の香ばしさが、口の中にゆっくり広がっていく。
窓の外を見ると、時々、地元の人らしき年配の女性が通り過ぎていく。観光客ではない人の歩くスピードは、やっぱり違う。急いでいない。でも、ちゃんと目的地がある。そんな歩き方。
カフェの中には、わたし以外に二組ほど。みんな、静かに時間を過ごしている。誰も喋っていない。それが気まずいわけじゃなくて、ただそれぞれが自分の余白を持っている、そんな空気だった。
尾道じゃなくて、よかった
竹原を訪れて思ったのは、「人が少ない」ことの価値は、ただ静かだということじゃない、ということ。人が少ないと、自分の感情の輪郭が、はっきりする。周りに合わせなくていい。「ここで写真を撮るべき」とか「感動すべき」とか、そういうプレッシャーがない。
尾道が悪いわけじゃない。尾道には尾道の良さがある。でも、今のわたしには、竹原のこの静けさが、必要だった気がする。
帰りの電車に乗る前、駅のホームで海を眺めていた。瀬戸内の海は、いつ見ても穏やかで、それでいて少しだけ寂しい。その寂しさが、嫌いじゃない。
また、誰にも教えたくない場所が増えた
竹原は、きっとこれからも「尾道のじゃない方」と呼ばれ続けるのだろう。でも、そのおかげで、この町の静けさは守られているのかもしれない。
もし次に広島を訪れることがあったら、また竹原に寄りたいと思う。それも、やっぱり一人で。誰かと一緒だと、この町の余白を、うまく感じ取れない気がするから。
ちょっと言葉にするのが難しいけれど、竹原はそういう場所だった。
旅の準備に
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