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四月の終わり、北陸新幹線の車窓には桜の残りと新緑の兆しが同居していた。新高岡駅で降りる人はそう多くない。大半は金沢へ向かう。わたしはそれがなんだか嬉しくて、誰もいないホームで深く息を吸った。高岡という町を、まだ誰にも教えたくないような、そんな気持ちだった。工芸の町、と聞いて思い浮かべるのは京都か金沢か。でも、ここには京都にも金沢にもない、静かで、確かな「つくる」の温度があった。
北陸新幹線の一駅先に残る、400年の鋳物の記憶
新高岡駅から路面電車に揺られて15分ほど。車窓には住宅街と田んぼがゆっくり流れていく。JR高岡駅を経由して、金屋町エリアの停留所で降りた。
高岡銅器の歴史は、400年前に遡る。加賀藩の二代藩主・前田利長がこの地に高岡城を築いた際、産業振興のため河内国から鋳物師を招いた。以来、銅器づくりはこの町の呼吸と同じように、脈々と受け継がれてきた。
京都や金沢のように観光地化されていないぶん、ここには「生活と工芸が一体になっている」空気が残っている。工房の軒先から聞こえる金槌の音。格子戸の奥に積まれた銅の塊。それらが、観光のための演出ではなく、今日も明日も続く日常として、そこにある。金沢のじゃない方――加賀市・山中温泉で過ごす、何もしない贅沢でも触れたけれど、北陸には有名観光地の隣に、こうした静かな宝物が眠っている。
金屋町──格子戸と石畳が続く銅器職人の町
金屋町の通りを歩くと、時間が静かに遅れていくような錯覚に陥る。石畳の道の両側に、千本格子の家屋が軒を連ねている。赤褐色の土壁。深い軒先。どの家も、派手な看板を掲げているわけではない。けれど格子の隙間から、工房の気配がそっと漏れてくる。
平日の昼下がりだったせいか、通りには観光客の姿はほとんどなかった。ときおり、地元の人が自転車で通り過ぎていく。わたしはその静けさの中を、ゆっくり歩いた。歩きながら、耳を澄ます。どこかで、金属を叩く音がする。炉の火が燃える音がする。この町には、音が生きている。
ある工房の前で、ふと足を止めた。軒先に置かれた銅の風鈴が、春風に揺れて小さく鳴る。その音色は澄んでいて、けれど主張しすぎない。ちいさな音が、空気に溶けていくようだった。
工房を訪ねる。触れる。作り手の温度を感じる時間
金屋町には、工房見学を受け入れているところがいくつかある。事前に予約をして、ある鋳物工房の扉を叩いた。
迎えてくれたのは、50代くらいの職人さん。寡黙な方だったけれど、手を動かしながら語る言葉には、深い誇りと静かな熱が宿っていた。鋳型に流し込む溶けた銅。冷えていく金属の色の変化。磨きあげられた表面に浮かぶ、光の反射。どれもが、手の仕事の集積だった。
「同じ型を使っても、温度や湿度で毎回違うものができる。だから面白い」
そう言って、職人さんは少し笑った。わたしは、その言葉に胸が温かくなった。完璧を目指すのではなく、その日その時の条件を受け入れながら、最善を尽くす。それは工芸に限らず、生きることそのものに通じる姿勢のような気がした。
工房では、小さな香立てをひとつ購入した。手のひらに乗るサイズの、真鍮の小品。表面には細やかな槌目が打たれている。持ち帰って、部屋に置いた。それがあるだけで、なんだか空気が少し引き締まったような気がする。
瑞龍寺と前田家の静かな威光
高岡には、工芸だけでなく、歴史の重みを感じる場所もある。その代表が、国宝・瑞龍寺だ。
金屋町から車で10分ほど。広い境内に立つと、まず圧倒されるのはその静謐さだった。観光地として賑わう寺院とは、明らかに空気が違う。参拝者は数えるほど。伽藍の配置は整然としていて、余計な装飾がない。曹洞宗の禅寺らしい、凛とした佇まいがそこにあった。
仏殿、法堂、山門が一直線に並ぶ伽藍配置は、江戸初期の禅宗様式を今に伝える。どの建物も、木の色が深く、柱が太く、どっしりとしている。その威厳は、威圧ではなく、静かな説得力を持っていた。
境内を歩きながら、ふと谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を思い出した。光と影のコントラスト。暗がりの中にこそ浮かぶ美しさ。瑞龍寺の堂内は、まさにそんな空間だった。窓から差し込む光が畳を照らし、その光が途切れたところに、深い影が生まれる。わたしはその境界線を、しばらく見つめていた。
高岡で泊まる。朝の町を独り占めする贅沢
高岡には大型ホテルも駅前にいくつかあるけれど、わたしが選んだのは金屋町に近い小さなゲストハウスだった。築70年の町家を改装した宿で、一日一組限定。
夜、静かな部屋で畳の上に寝転んだ。天井の梁が見える。柱が見える。この家の記憶が、木の中に染み込んでいるような気がした。外からは、ときおり路面電車の音が聞こえる。その音すらも、優しかった。
翌朝、誰もいない金屋町を散歩した。朝の光は斜めで、やわらかい。石畳に影が長く伸びている。工房からは、まだ人の気配がしない。けれど、この町はちゃんと息をしている。それがわかるだけで、なんだか嬉しかった。
朝ごはんは、宿の近くの小さな喫茶店で。地元の人たちが新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる。わたしもその輪に混ざって、トーストと珈琲を頼んだ。観光客として迎えられるのではなく、ひとりの客として扱われる心地よさ。それが、高岡という町の距離感なのだと思った。尾道のじゃない方──竹原、静謐な「安芸の小京都」で過ごす一日や、伊豆のじゃない方──西伊豆・松崎町、なまこ壁と棚田に出会う初夏の余白と合わせて訪れたい、観光地化されていない町の魅力がここにはある。
余白が生む、工芸との出会い
高岡には、派手な観光スポットはない。インスタ映えする場所も、そう多くはない。でも、だからこそ、この町には「余白」がある。
余白があるから、自分のペースで歩ける。余白があるから、ふと立ち止まって、音や匂いに気づける。余白があるから、工芸や建築や歴史と、静かに向き合える。
京都や金沢が悪いわけではない。ただ、もしあなたが「もう少し静かな場所で、丁寧に何かと出会いたい」と思うなら、高岡はきっと、その期待に応えてくれる。
帰りの新幹線に乗る前、わたしは駅の売店で小さな銅の栞を買った。それを本に挟むたび、金屋町の石畳と、工房の金槌の音と、瑞龍寺の静けさを思い出すだろう。
旅は、何を見たかではなく、何を持ち帰るかで決まる。わたしが高岡から持ち帰ったのは、工芸品というモノだけではなく、「つくる」ということへの敬意と、静かな時間への渇望だった。それは、きっとこれからの日々を、少しだけ豊かにしてくれる。
旅の準備に
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