メニュー
尾道水道の風景 向島方面

余白を取り戻す「尾道の島々」──向島・岩子島、人の少ない瀬戸内を歩く

この記事には広告リンクが含まれています

尾道を訪れる人の9割は、本土側しか歩かない。そう聞いたとき、なんだか不思議な気がした。尾道水道を挟んだすぐ向こう側に島があるのに、そこへ渡る人は思いのほか少ない。渡船はたった5分で着くのに。

尾道駅前桟橋 しまなみサイクリング起点

向島も岩子島も、ガイドブックではほとんど触れられない。でもだからこそ、尾道のもうひとつの姿が、そこには静かに息づいている気がした。

尾道水道を渡る、たった5分の船旅

尾道駅から歩いて数分、桟橋に着くと小さな渡船が待っていた。運賃は100円。切符を買うのではなく、降りるときに料金箱へ硬貨を入れるかたちだった。地元の人たちは慣れた様子で乗り込んでいく。自転車を引いたままの人もいれば、買い物袋を抱えた人もいる。

船が出ると、すぐに水面の匂いが近づいてきた。少しだけ潮の香りがして、風が思っていたよりやわらかい。船は小さく揺れながら、ゆっくりと向島へ向かっていく。尾道本土の町並みが、少しずつ後ろへ下がっていった。

5分という時間は、何か考えるには短すぎるし、何もしないには少し長い。そんな中途半端な時間だからこそ、ちょっとだけ心が宙に浮くような感じがした。

尾道水道の風景 向島方面

向島の港に着くと、びっくりするほど静かだった。観光客の姿はほとんどなく、商店街のような華やかさもない。ただ、穏やかな日常がそこにあるだけだった。以前紹介した答志島と同じような、観光地化されていない島の空気がここにもあった。

向島の高見山から望む瀬戸内の多島美

向島には高見山という小さな山がある。標高は283メートルほどで、本格的な登山装備がなくても登れる気軽な山だ。とはいえ、道は思いのほか急で、息が切れた。

登り始めてから30分ほどで、視界が開けてきた。振り返ると、瀬戸内の島々が、まるで点描画のように浮かんでいる。青い海と、いくつもの島の輪郭と、空の淡い色。言葉にすると、どうしても足りない。

瀬戸内の空と海 多島美

頂上には、ほとんど人がいなかった。木製のベンチがひとつあって、そこに腰を下ろすと、風がすうっと通り抜けていった。遠くに見える尾道の町が、ここからだと小さな積み木のように見える。

しばらくそこに座っていた。何も考えなくていい時間というのは、こういう場所にしかないのかもしれない。

岩子島の集落と造船所の風景

向島からさらに橋を渡ると、岩子島へ行ける。この島はもっと小さくて、集落もひっそりとしている。橋を渡る途中、海面がきらきらと光っていた。

岩子島には造船所があって、そこだけは人の気配がした。溶接の音が遠くから聞こえてきて、金属の焦げるような匂いがわずかに混じる。船を造る音は、なんだか懐かしいような、でも少しだけ緊張するような響きがあった。

集落の中を歩いていると、小さな路地がいくつもあって、その奥に生活の匂いがする。洗濯物が干してあったり、軒先に花が植えられていたり。観光地には絶対にない、ただそこにある暮らしの風景だった。

誰かが庭先で草むしりをしていて、目が合うと少しだけ会釈をしてくれた。その何気ないやりとりが、なぜかうれしかった。

島の小さな食堂とパン屋

向島に戻って、お昼ごはんを探した。観光客向けの店はほとんどなくて、地元の人が通うような小さな食堂がぽつぽつとあるだけだった。

ある食堂に入ると、カウンターに座ったおばあさんが一人、焼き魚定食を食べていた。メニューはシンプルで、定食が数種類と丼物がいくつか。迷ったけれど、煮魚定食を頼んだ。

しばらくして運ばれてきた定食は、派手さはないけれど、丁寧に作られていることが伝わってくるものだった。煮魚の味付けが少し甘めで、ごはんと合う。小鉢のひじきも、きんぴらも、どれも手を抜いていない感じがした。

食べ終わって外に出ると、少し歩いたところに小さなパン屋があった。看板が控えめで、知らなければ通り過ぎてしまいそうな佇まいだった。

店に入ると、カウンターにパンがいくつか並んでいて、焼きたてのいい匂いがした。塩パンとあんバターのパンを買った。塩パンは外側がカリッとしていて、中はしっとり。あんバターは少し甘すぎるかと思ったけれど、バターの塩気がちょうどよく効いていた。

島宿か尾道の一人宿か

向島には小さな宿がいくつかある。古民家を改装したゲストハウスや、漁師さんが営む民宿など、個性的な場所が点在している。本土側の尾道に泊まるのもいいけれど、島側に泊まると、また違った時間が流れる気がした。

夜の島は、驚くほど静かだった。街灯が少なくて、空が近く感じられる。星がたくさん見えて、波の音が小さく聞こえる。尾道本土の灯りが、対岸にぼんやりと浮かんでいるのが見えた。

ひとり旅で島に泊まるというのは、ちょっと勇気がいるかもしれない。でも、その静けさに身を任せてみると、自分の輪郭がはっきりしてくるような感覚があった。誰かと一緒じゃないと旅と呼ばないのだろうか、とふと思った。こちらの記事でも触れた羽黒山麓の宿で感じたような、引き算の心地よさがここにもあった。

島と本土の間に生まれる余白

翌朝、もう一度渡船に乗った。朝の尾道水道は、前日とは少し違う表情をしていた。光の角度が変わると、海の色も変わる。それだけのことなのに、なんだか胸のあたりが静かになった。

尾道には何度も来たことがあったけれど、向島や岩子島を歩いたのは今回が初めてだった。本土側だけを見ていたら、きっと気づかなかった景色がある。たった5分の船旅の先に、こんなにも違う世界があるということ。

余白というのは、何もない時間のことではないのかもしれない。誰かが用意したプランの外側に、自分で見つけた小さな発見や静けさが積み重なっていく。そんな時間のことを、余白と呼ぶのかもしれないと思った。

尾道の島々は、きっとこれからも変わらずそこにある。観光地にならないまま、静かに日常を重ねていく。そんな場所を知っているということが、少しだけ心の支えになる気がした。また訪れたいと思える場所は、いつでも帰れる場所でもある。そう思えたことが、何よりうれしかった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です