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4 月の、まだ少し肌寒い朝だった。長野駅からバスに揺られて一時間、戸隠に着く頃には、空気の質が変わっている。街ではもう薄手のコートでいい日なのに、ここでは息が白い。標高 1200 メートルの春は、ゆっくり来る。ひとりで来た。誰かと行かないと旅と呼ばないのかもしれないけれど、戸隠は、ひとりで歩く場所な気がした。
随神門までの、静かな石畳
鳥居をくぐると、最初に石畳の参道が続く。整えられているのに、整いすぎていない。雪解け水で少し湿っていて、足音が、いつもより柔らかく返ってくる。
ここまでの道のりで、街の音はもう聞こえない。遠くで鳥が鳴いている。その間隔が、だんだん長くなっていく。神社のための道ではあるけれど、神様に会う前に、まず自分の呼吸と会う道だと思った。
随神門の朱色は、春の景色の中ですこし浮いて見える。くぐる前に、一度立ち止まって、深呼吸。何を願うとか、そういうことを考える前に、ここまで来たことだけで、もう充分な気がしてくる。
樹齢 400 年の杉並木──時間の中を歩く
随神門の向こうに、杉並木が始まる。
写真で見ていたものと、実際に入ったときの感覚は、やっぱり違った。木の太さもあるけれど、何より、ここを歩く人の歩幅が、みんなゆっくりになる。急ぐ人がいない。みんなが、自分のペースで歩いている。
樹齢 400 年と聞いていた。数字で聞くと大きすぎてピンと来ないのだけれど、見上げるとわかる。わたしが生まれるよりずっと前から、ここに立っていた木。わたしがいなくなった後も、立っているであろう木。その下を、いま、歩いている。胸のあたりが、ふっと静かになった。
杉の匂いがする。冷たく湿った土の匂いもする。ときどき、雪解けの水が、木の幹を伝って落ちる音。目でなく、耳で歩いている気がしてくる。
注連縄の下をくぐって、奥社へ
参道の奥、緩やかな石段にさしかかる。呼吸が少し上がる。標高が上がるにつれて、風が冷たい。

注連縄の下をくぐるとき、いつも少し背筋が伸びる。誰に言われたわけでもないのに、自然と。神社で、こういう身体の反応を、しばらく忘れていた。観光でまわる神社では、きっと起きなかったものだ。
奥社にたどり着いた時、手を合わせた。長居はしなかった。何を願ったかは、書かないでおこうと思う。言葉にすると、どうしても足りなくなってしまうから。
石段を下りながら、さっきまでの景色が、もう一度違って見える。下りは、上りのときに気づかなかったものが見えてくる。これも、ひとりで歩いていたから、なのかもしれない。
戸隠蕎麦の昼──冷えた体に、一杯
参道を歩き終えて、昼どきになっていた。戸隠といえば蕎麦。ぼっち盛りと呼ばれる、五束に分けられた冷たい蕎麦。

つゆは辛口で、薬味の大根おろしが利いている。歩いて冷えた体に、最初の一口が、しみた。なんだか、今日一日の流れが、ここでほどけていく感覚があった。
お店のお母さんが「遠くから来はったんですか」と声をかけてくれた。ひとり旅ですと答えると、「ゆっくりしてってな」と、それだけ言って、お茶を注ぎ足してくれる。こういう短い会話が、ひとり旅の一番の記憶になることがある。
「風立ちぬ、いざ生きめやも」──堀辰雄の言葉が、なぜだかふと頭をよぎった。軽井沢の話だったはずだけれど、長野の春の空気には、どこかそういう、しんとした文学の気配が、まだ残っている。
結び:ひとりで歩くと、聞こえるもの
戸隠から帰るバスの窓で、ぼんやり景色を眺めていた。朝より、少しだけ日が傾いていて、杉の影が長くなっていた。
ひとりで歩くと、いつもは聞こえない音が、聞こえてくる。鳥の間隔。足音の返り方。自分の呼吸の深さ。そういう、誰かと歩いていたら、きっと気づかないままだったものたち。
ひとり旅が好きとか、そういうことでもない気がする。ただ、ときどき、ここに来て、自分の音に戻る時間が、わたしには必要なのかもしれない。
また、この石段を歩きに、来ると思う。
次は、雪が積もったころに。
