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Roametic-Travel~余白の旅

草津のじゃない方──別所温泉、信州最古の湯で「何もしない」を学ぶ
Journal

草津のじゃない方──別所温泉、信州最古の湯で「何もしない」を学ぶ

K.V.T

「長野の温泉に行く」と言うと、たいていの人は草津か野沢温泉を思い浮かべる。あるいは白骨か、渋温泉か。どこも素晴らしい場所だけれど、少し有名になりすぎて、週末になると人で溢れる。

草津の混雑を避ける信州の湯治 ── 女性一人旅 温泉の決定版・別所温泉

女性一人旅で温泉を探すなら、草津のような賑わいより、静かな別所温泉。信州最古の湯で、日帰りでも宿泊でも、一人旅の穴場として今じわじわ注目されている。

だから私は、別所温泉に向かうことにした。

上田駅から乗り換えた「別所線」は、長野電鉄の支線だ。1両か2両編成の小さなローカル列車が、のんびりと田園風景の中を走っていく。終点・別所温泉駅まで約30分。車内はほぼ貸し切り状態で、窓の外には北アルプスの稜線がうっすらと見えた。

別所温泉へ向かう信州の山並みと花桃の春景色
別所線の車窓から見える信州の山並み ― 旅がはじまる

信州最古の温泉、と呼ばれるところ

別所温泉は、長野県上田市にある温泉地だ。「信州最古の温泉」とも言われ、奈良時代には神亀年間(724年頃)の記録にすでに名前が登場するという。都心からのアクセスは、北陸新幹線で上田駅まで約90分。そこから別所線に乗り換えれば、さらに30分。

温泉街は小さい。徒歩で回れる範囲に、共同浴場が3つ、神社・仏閣が数軒、土産物屋と旅館が並んでいる。「観光地らしく整えられた」という雰囲気はなく、むしろ昭和の温泉町がそのまま残っているような、懐かしさがある。

人口は少なく、夕方になると通りに人影が消える。それがよかった。

北向観音、逆さに向いた観音様

別所温泉で最初に向かったのは、北向観音(きたむきかんのん)だ。

日本のほとんどの寺社は南向きに建てられているが、この観音堂は珍しく北を向いている。言い伝えによれば、善光寺(長野市)と向き合って建てられており、善光寺と合わせて参拝することで「片参り」にならないと言われている。「善光寺だけ行ったら、別所の観音様にも挨拶しなさい」という、なんとも信州らしい話だ。

観音堂の前には、苔むした石畳と、古い常夜灯が並んでいる。早朝に訪れると、線香の煙がうっすらと漂い、参拝者もほとんどいない。境内の愛染かつら(樹齢1200年とも言われるカツラの老木)の根元に手を触れると、なんとなく時間の重さが掌に伝わってくる気がした。

別所温泉 北向観音の山門と参道 ── 女性一人旅におすすめの穴場
北向観音の山門。石畳の参道が温泉街へと続く

安楽寺の八角三重塔、信州にひとつだけ

別所温泉 安楽寺の八角三重塔 ── 信州で唯一の国宝建築
安楽寺の八角三重塔。新緑に包まれた、信州唯一の国宝

別所温泉の寺社の中で、とりわけ印象深かったのが安楽寺の八角三重塔だ。国宝に指定されているこの塔は、日本に現存する唯一の木造八角塔と言われている。

境内に入ると、杉木立の中に石畳の参道が続いている。人気(ひとけ)がなく、木の間から差し込む光の筋だけが動いている。塔は小高い丘の上にあり、石段を登った先で突然視界に現れる。八角形の独特のフォルムが、周囲の杉の木々の中に静かに立っている。

鎌倉時代に建てられたこの塔の前で、私はしばらく動けなかった。何かを考えたわけではない。ただ、古いものが持つ重力のようなものに、引き寄せられていた。

「信州の鎌倉」と呼ばれることもある塩田平(別所温泉を含む地域)には、こうした鎌倉〜室町時代の文化財が点在している。なぜ信州のこの地に、あの時代の文化が根付いたのか。それを考えながら歩くのもまた、旅の醍醐味のひとつだった。

共同浴場「大師湯」で、だれかの日常に紛れる

別所温泉 女性一人旅におすすめ ── 共同浴場「大師湯」で日常に紛れる

別所温泉には、3つの共同浴場がある。大師湯、大湯、石湯。どれも入浴料は150円〜300円程度で、地元の人が日常的に使う湯だ。

私が入ったのは大師湯。弘法大師(空海)が入浴したと伝わる湯だ。木造の小さな浴場で、浴槽もこぢんまりしている。湯温はやや高め。体を沈めると、首まで浸かっても足が余るような、昔ながらのサイズ感がある。

平日の午後、他に入浴客は一人だけ。地元のおじいさんで、「どこから来たの」と聞かれた。東京です、と答えると、「遠いところからわざわざ」と言って、少し嬉しそうな顔をした。それだけの会話だったけれど、温泉というのは知らない人との距離を、不思議と縮めてくれる。

別所温泉の温泉宿 一人旅の和室 ── 障子と低卓の静かな客室
温泉宿の和室。「何もしない」をする時間

夜の温泉宿、「何もしない」をする

宿は、温泉街の小さな旅館を選んだ。部屋数が少なく、こぢんまりとした宿だ。チェックインのとき、女将さんが一人で出迎えてくれた。

部屋に入ると、窓から温泉街の屋根が見える。テレビをつける気にもなれず、持ってきた文庫本を開いた。でもすぐに、本を閉じてただ座っていた。窓の外で、夕暮れの光が屋根を染めていく。鳥の声が聞こえて、遠くで子どもの叫び声がして、また静かになった。

これが「何もしない」ということか、と思った。何かをしようとするのではなく、ただそこにいる。旅先でこんなふうに過ごすのは、実は難しい。どこかへ行こうとか、何かを見ようとか、せっかく来たのだからという焦りが、いつも後ろから押してくる。でも別所温泉は、そのエンジンを自然に切ってくれる場所だった。

夕食は旅館の食事。山菜と信州牛の小鉢、地元の野菜を使った煮物、締めにおそば。凝ったものではないけれど、丁寧に作られた味がした。食事をしながら、女将さんと少し話した。昔は湯治客が長逗留することも多かったが、今は日帰り客が増えたこと。でも、最近また一人旅の若い人が増えてきた、と言っていた。

別所温泉 旅館の夕食 ── 一人旅の和膳と味噌汁
旅館の夕食。派手さはないが丁寧な和膳

星空と、温泉と、翌朝のこと

夜、もう一度大師湯に入った。21時過ぎ、今度は誰もいなかった。湯の中で天井を見上げると、古い木の梁が見える。外では、虫の声が聞こえる。

風呂上がりに宿の外に出ると、空に星が出ていた。温泉街の明かりは少ないから、思ったよりよく見える。都市では見えない星の多さに、少し驚いた。

翌朝、早起きして北向観音に再び向かった。前日とは光の角度が違い、朝の空気の中で境内が違う表情をしていた。お参りをして、石段に腰掛けて、しばらく何も考えずにいた。

帰り際、駅の近くの小さなカフェでモーニングをいただいた。地元のパンと、信州産のりんごジュース。窓から別所線のホームが見えて、また次の列車が来るまでの時間がゆっくりと流れていた。

別所温泉の夜空 信州の星空と流れ星の風景
信州の星空。別所の夜が深まる

草津でも野沢でもない選択

別所温泉は、長野の有名温泉地と比べると、地味かもしれない。有名な露天風呂があるわけでも、おしゃれな宿が並んでいるわけでもない。でもそれがいい。

国宝の塔がある。1200年の老木がある。地元の人が日常的に使う湯がある。そして、何もしない時間がある。

一人旅だからこそ、このゆっくりとしたペースが合う。誰かと一緒だと「もっと見よう」「もっと行こう」という気持ちが出てくる。でも一人なら、安楽寺の塔の前でどれだけ立っていてもいい。大師湯の湯の中で、天井をぼんやり見上げていてもいい。

信州の、ひっそりとした温泉町。別所温泉は、旅の余白を取り戻すのにちょうどいい場所だった。

別所温泉へ ― アクセスと旅のヒント

別所温泉へのアクセスは、北陸新幹線で上田駅下車(東京から約90分)、上田電鉄別所線に乗り換えて終点・別所温泉駅まで約30分。

共同浴場3か所:大師湯・大湯・石湯。それぞれ個性があり、すべて回るのもよい。入浴料150〜300円程度(時期により変動)。

訪問おすすめ時期:秋(10〜11月)は紅葉と合わせて美しい。春(4〜5月)は新緑が鮮やか。夏は避暑にもなる。冬は雪景色の中の温泉街も趣がある。

周辺も合わせて:上田城(真田氏ゆかりの城)は上田駅から徒歩10分。信州の鎌倉・塩田平には中禅寺(安楽寺の近く)や常楽寺など古刹が多く、半日かけて巡るのも良い。

女性一人旅について:温泉街は小さく、夜も落ち着いた雰囲気で安心して歩ける。旅館のスタッフや地元の方も親切で、初めての一人旅の方にも向いている。

余白、というものについて

この旅から帰ってしばらく経って、別所温泉のことを思い出した。大師湯の天井ではなく、安楽寺の塔でもなく、ただ宿の窓から見た夕暮れの屋根の景色。あの、何もしていなかった時間のことを。

旅先でいちばん大切なのは、「何かをする」ことではなくて、「何もしない時間がある」こと。別所温泉はそれを教えてくれた。

草津にも野沢にも行ったことがある人こそ、一度別所へ。信州に、こんなにひっそりとした温泉があることを、きっと誰かに教えたくなるはずだ。